どこまでも続く蒼



長次が生まれたのは、紺碧の海にぽつりと浮かぶ小さな島だった。
島の中心にある小さな山のてっぺんに上れば、東の方に本土の青い山並みが遠く望めた。
島の西はただひたすらに真っ青な海が空まで続いていた。海の向こうには巨大な大陸があり、時折異国の交易船が島の近くを通った。舳先に龍をかたどった巨大な船は、白い波を蹴立てて悠々と海を渡っていた。長次は山頂の松の木に登ってそれを眺めるのが好きだった。
この島では皆、漁で生計を立てていた。長次の父はたくましい船乗りで。日に焼けた太い腕をしていて、長次を軽々と抱え上げた。
母は腕利きの海女で、誰よりも深く長く潜ることが出来た。真っ白な歯を見せてよく笑うひとだった。


長次が育ったのは海に面した小さな港町だった。
近隣の漁師たちの魚などはここへ水揚げされ、商人たちに売り買いされていた。船に米や野菜を積んだ行商人も多数やってきて、ささやかながら活気に満ちた町だった。
長次の養父も船乗りだった。この町の漁師たちの親分格で、たくさんの人たちに慕われていた。養母はあまりからだが丈夫な人ではなかったが、細い身体で饅頭などを入れたかごを担いで、商人や職人に売り歩いていた。白い指をした、手先の器用なひとだった。
5つ上の義姉は勝気で、いつも母を助けてせわしなく働いていた。本当によく働く人だった。養父母が病で相次いで亡くなった後も、行商をして長次を食べさせてくれていた。負けず嫌いで、涙を見せるのが嫌いなひとだった。
長次は義姉が大好きだった。早く姉を助けて働きたいとずっと思っていた。

15になって、長次も半人前ながら船に乗るようになった。ごく当たり前のことだった。

長次は海に囲まれて育った。
長次にとっての海は、親たちにとってそうであったように日々食わしてくれる大切な糧であり、神が恵んでくれた生きる基盤だった。嵐や凪で人に牙をむくことがあっても、海から離れようとは思いもしなかった。
それ以外の生活など、考えられなかった。


□  □  □


空は重い雲に覆われ、突如振り出した大きな雨粒が船べりを、水夫(かこ)たちの背を叩く。しかし痛いと感じるような余裕は誰一人としてなかった。
ヒョウと風を切る音がして、船尾に矢が突き刺さる。ワッと歓声が水面を渡って聞こえた。
「おら、漕げ、死にたくなけりゃ漕げよ!!」
舵取りのがなる声に、水夫たちは死に物狂いで櫂をかいた。長次も腕が千切れんばかりにかいた。しかし逆巻く波は長次たちの船の行く手を拒む。船頭は唇噛んで、指が白くなるほど梶を握り締め後ろを振り返った。
「クソッ、見たことねえ連中だが、どこかの雇われ海賊か」
長次もつられて後方に目をやる。向こうは櫓14艇仕立ての早船、6人乗りの小型廻船とは比較にならない程の速さで、ぐんぐんと差を詰めてきていた。次々と飛んでくる矢を、舵取りは右左とジグザグに梶を進めて交わす。
「けっ、よそ者なんぞにこの韋駄天丸が掴まってたまるか」
舵取りはとりかじいっぱいに切ると、船首を陸に向けた。まっすぐ進めば岬にぶつかる。
「隙間を抜けるぞ、潮に櫂を取られるな!」
この岬回は岩礁帯で、見えるだけでなく水面下にもたくさんの岩がある。潮の流れも複雑に曲がりくねって地元の漁師でも通るのは難しい。
しかし舵取りは全ての岩や流れを知り尽くしてるという風に的確に梶を取った。追手はぐるり岬を迂回する。
「よっしゃ、ここさえ抜ければこっちのもんだ!」
船はそのまま洞穴へ飛び込む。激流の中を船はぐんぐん進んだ。長次は櫂を引き、弾き飛ばされぬよう船端にしがみついて息を吐いた。
長次の足元には筵にくるまれた木箱。ずしりと重いそれは、厳重に封印されていて中身はわからない。依頼主は近隣の座を仕切る豪商、韋駄天丸はいつもここから貴重品や緊急の荷運び依頼を請け負っていた。
しかし今回の依頼は明らかにこれまでと違った。運び先は、現在戦が近いと噂されている隣国の関所まで。積荷は、深夜武装した侍に厳重に警護され運ばれてきた。
依頼料は通常の3倍で危険手当も上乗せされており、乗組員全員がしばらく遊んで暮らせるには充分な金額だった。
長次は下っ端だから詳しい話はわからない。豪商と共に来て、船頭と長いこと密談していた偉そうな男が誰なのかもわからないし、興味もなかった。長次に出来るのは、信頼する頭の命令に従うことのみ。たとえそれが、海賊に追われるような危険な仕事であっても変わらない。海に出ることは常に危険と隣り合わせだったのだから。
「抜けるぞ、帆を立てろ!」
号令と共に、重く濡れた筵帆が風をはらみながら上がる。追い風を受けて、船はぐんとスピードを増して一気に海を駆け抜ける。敵の船はまだ見えない。
船は加速しながらやや沖合いに向けて進路を取る。敵を振り切ったからと言って気は抜けない。嵐の海は刀や矢よりも恐ろしい。沖の荒い波がまるで悪意を持つかのように、船を揺らす。船腹を打つ波しぶきが雨と共に船乗りたちの頭の上から降りそそぐ。
長次は船底にへばりつくようにして、たまった水をあかとりでかい出していた。ぐうっと海が大きく盛り上がって船が傾く。長次は波に流されないよう船端にしがみついた。
がたんっ…ずずっ…ずずっ…風雨にかき消させそうな微かな音に振り向くと、木箱をくくる縄が緩み、少しずつだが箱が動き出していた。この箱にもしものことがあったら、この船全員の首が飛ぶ。
長次は箱に飛びつき縄を括りなおした。力いっぱい縄を引っ張り締め上げた時、高波が船を襲った。船端をゆうゆう越えた波がバランスを崩した長次の身体を掻っ攫い、海底へと引きずり込んだ。
身体を海面に打ちつけた激しい痛み、そして重くのしかかる水の圧力、黒い海水に泡を吐き出し長次は意識を失った。